勝海舟と坂本龍馬の出会いのエピソードは真実?75年の生涯と功績についても
勝海舟(出典:ウィキペディア)

今回ご紹介するのは、勝海舟です。

 

戊辰戦争が幕を開け、江戸にも戦火が迫る幕末最末期、江戸の平和を託されたのが、勝海舟です。

坂本龍馬は勝を斬りに言ったものの、諭されて彼に弟子入りしたと言われていますが、果たして本当なのでしょうか?

 

また、幼少期に起きた、彼が犬を嫌いになったあるエピソードとは!?

 

  • 勝海舟の生涯とは。
  • 勝海舟と坂本龍馬の出会いは。
  • 勝海舟に関する興味深いエピソードについて。

 

今回はこのような点について特に詳しく見ていきますので、ぜひご注目ください!

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勝海舟とは?

勝海舟は1823年に江戸で生まれました。

 

蘭学や兵学を学んだのち長崎海軍伝習所に入り、1860年に咸臨丸に乗って渡米しました。

 

1863年には神戸海軍操練所の設立の許可を得て、それと別に彼の私塾の設立の許可も受けます。

その私塾において、彼は脱藩浪士らの教育を行なったのです。

 

戊辰戦争の鳥羽伏見の戦い後、彼は東征軍参謀の西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を実現しました。

明治維新後も、海軍大輔や海軍卿、元老院議官として活躍し、1875年に辞任します。

1888年に枢密顧問官となると、意見陳述を再び活発にし、特に日清戦争や韓国への出兵に反対しました。

 

彼は1899年に亡くなりました。

 

以下の写真と年表も合わせてご覧ください。

写真

勝海舟

勝海舟(出典:ウィキペディア)

この写真は、1860年の渡米時に、サンフランシスコにて撮影されたものです。

年表

年 出来事
1823年 生まれる
1838年 家督を相続
1860年 咸臨丸に乗り渡米
帰国
1863年 神戸海軍操練所の設立許可が下りる
1865年 海軍操練所閉鎖
1868年 西郷隆盛と会見し、江戸無血開城を実現
1872年 海軍大輔
1873年 参議に転任  海軍卿を兼任
1875年 元老院議官に異動
元老院議官を辞す
1887年 伯爵を受爵
1888年 枢密顧問官
1899年 死去

次の章では、勝海舟と坂本龍馬の出会いについて見ていきます!

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勝海舟と坂本龍馬の出会いのエピソードは真実?

坂本龍馬

坂本龍馬(出典:ウィキペディア)

勝海舟本人が晩年に語ったところによれば、勝と坂本龍馬の出会いは、龍馬が勝を斬りに行ったものの、諭されて龍馬が弟子入りしたことに始まるとされています!

 

しかし、このドラマチックなエピソードは、どうやら勝の記憶違いから生じたようです。

実際は、当時政事総裁職を務めていた松平春嶽から、勝海舟への紹介状を龍馬が受け取り、勝の屋敷を訪れたことに始まりました。

 

その後は、勝は龍馬をかわいがっており、龍馬も勝のために、神戸海軍操練所の設立資金集めのために奔走しました。

龍馬の脱藩の罪が問われないよう、土佐藩主・山内容堂に取りなしたのも勝のようです。

2人の出会いが日本を動かしたと言っても過言ではないでしょう。

 

次に、勝の残した功績について見ていきます。

勝海舟の功績

勝海舟の功績として最も大きいと言えるのが、江戸無血開城の実現でしょう。

 

将軍慶喜は勝に、西から迫る官軍への対応の指揮を任せたうえで、江戸の無血開城を行なってもかまわない、という指示を出していました。

官軍との全面戦争となれば、「朝敵慶喜」の汚名は末代まで語り継がれてしまうため、勝は和平交渉の道を模索することとなったのです。

つまり、勝にとっての相手は官軍のみならず、好戦的な旧幕臣もいたのです。

 

そして、覚悟を決めて臨んだ西郷隆盛との対談により、江戸無血開城は実現しました。

これにより、江戸は戦火から守られることとなったのです。

明治期の功績としても、海軍卿を務めるなどして日本海軍の発展に寄与したり、旧幕臣に資金援助を行なったりするなど、精力的に活動しました。

 

次に、勝と西郷隆盛との会談について見ていきます。

勝海舟と西郷隆盛による江戸無血開城の真相

西郷ら官軍が江戸に到着する前から、両者は使者を通じて交渉を行なっていました。

 

勝は、諸外国の脅威が迫りつつある状況で、日本人同士での争いをしている場合ではないという旨を伝えており、これを受けて官軍の態度は軟化したようです。

ただ勝は、会談が失敗すれば官軍を全滅させ、江戸の市民を避難させるという計画を立てており、相当な覚悟をしていたようです。

 

そして西郷との対談が始まりますが、意外にも西郷は翌日の江戸総攻撃の中止を言い渡し、今後の方針を決めていくという方向に向かいました。

敵対していても理想を同じくしており、見事に呼吸が合ったというわけですね。

 

ちなみに、勝が江戸と全面戦争になった場合の戦略は、ナポレオンのモスクワ侵攻を阻んだ戦術である焦土戦術を参考にしたと言われています。

 

次の章では、勝の残した名言をご紹介します!

勝海舟の名言

勝の残した名言をいくつかご紹介します。

 

  • 「事を成し遂げる者は、愚直でなければならぬ。才走ってはうまくいかない。」
  • 「何でも大胆にかからねばならぬ。難しかろうが、易しかろうが、そんな事は考えずに、いわゆる無我の境に入って断行するに限る。」

 

勝の、理想へのまっすぐな思いがよく伝わってくる名言ですね。

 

  • 「その人がどれだけの人かは、人生に日が当たっていない時にどのように過ごしているかで図れる。日が当たっている時は、何をやってもうまくいく。」

 

現代を生きる我々にも教訓となる言葉ですね!

 

次の章からは、勝に関するエピソードについて見ていきます。

勝海舟のエピソード

勝海舟に関するいくつかのエピソードをご紹介していきます!

まずは、勝が犬を苦手とした理由に迫ります!

勝海舟は犬が苦手?

勝は犬が嫌いだったようです。

その原因は、彼の幼少期に起きたある事件にありました。

 

学問のけいこに向かう途中で、彼は犬に襲撃され、股間をかまれたのです!

これはかなりの重症だったようで、これに際した医者も助けられないのではと思うほどでした。

 

勝は幾日も生死の境をさまよいますが、手術は成功し、彼は助かりました。

勝は大人になってからたくさんの子どもたちに恵まれており、この事件が生殖機能に影響を与えることはなかったようです。

 

次に、勝の女性関係について見ていきます。

大の女好きだった?

勝はまじめそうなイメージがありますが、実は女好きだったようです。

 

勝には正妻として民子がいましたが、ほかに妾が5人いたのです!

民子との間に4人の子どもをもうけ、妾の子も多くいました。

 

そして、夫より長生きすることとなる正妻・民子は、腹違いの子9人を分け隔てなく育て上げたのです。

しかし、そんな民子は自らが亡くなる前に、勝のそばには埋めないようにと言い残したそうです。

 

次に、勝の父について見ていきます。

勝海舟の父がぶっとんでる?

勝海舟の父・勝小吉(こきち)は、酒と博打こそやらなかったものの、吉原遊びや喧嘩を好んだそうです。

また、剣術の腕に優れ、道場破りをするなど、かなり破天荒な人物であったようですね。

 

彼の甥・男谷信友は幕末期の江戸において随一の剣客だったのですが、そんな男谷も小吉には片手で負けたらしく、小吉がある意味で幕末最強だったと見る向きすらあるのです!

勝海舟もまっすぐな性格であったようですが、そんな性格はもしかしたら父・小吉の強い遺伝子によるものかもしれませんね。

 

次の章では、勝海舟の子孫について見ていこうと思います。

勝海舟の子孫

勝海舟の玄孫にあたる高山みな子氏は、現在フリーライターとして活動しています。

高山氏は勝の娘・目賀田逸子の系譜のようです。

現在は「勝海舟の会」の顧問も務めています。

 

次に、勝海舟の子どもについて見ていきます。

勝海舟の子供

勝海舟には多くの子どもがいました。

しかし、正妻である民子との間に生まれた長男・小鹿と次男・四郎は、勝の存命中にいずれも若くして亡くなっています。

ほかに妾との子として、アメリカ人のクララ・ホイットニーと結婚した梶梅太郎や、男爵・目賀田種太郎と結婚した逸子らがいます。

 

次に、勝海舟の墓についてご紹介します。

勝海舟の墓

勝海舟の墓は、東京都大田区の洗足池の畔にあります。

勝は生前、この洗足池の美しい風景に心を打たれ、ここに別荘を構えました。

 

ここに葬られたのも、勝本人の希望だったのです。

しかし前述のように、妻の民子は勝のとなりに葬られることを嫌がっていました。

 

次の章からは、勝海舟についてもっとよく知るための場所や作品をご紹介していきます!

勝海舟をもっと知るには?

勝海舟をもっと知るためには、勝海舟ゆかりの地や記念館を訪れたり、彼を題材にした本を読むのが良いでしょう。

まずは記念館からご紹介していきます!

勝海舟の記念館

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勝海舟記念館は、東京都大田区にあります。

 

この記念館は、国の登録有形文化財である旧清明文庫を活用したもので、2019年9月7日にオープンしました。

勝に関する資料の展示はもちろんのこと、大海原を進む咸臨丸のCG映像なども楽しむことができます。

 

次は、勝海舟邸跡です!

勝海舟邸跡

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東京都港区に、勝海舟邸跡があります。

現在は別の建物が建っており、木碑や説明板のみがあります。

 

勝はここにあった住居に、1859年から1868年まで暮らしていました。

坂本龍馬が松平春嶽の紹介を受けて訪れたのも、この地だったのです。

 

次に、勝海舟に関連した書籍について見ていきます。

おすすめの本

勝海舟についてもっと知るための本をいくつかご紹介します。

 

『勝海舟』シリーズ(子母沢寛、1968年、新潮社)は、全4巻からなる文庫小説です。

勝海舟を、同時代の著名人とともに描いた大作で、これは後述する1974年のNHK大河ドラマ『勝海舟』の原作となっています。

 

『幕末三舟伝』(頭山満、2007年、国書刊行会)も、勝海舟を題材にした書籍の一つです。

「幕末の三舟」とは、幕末から明治初期に活躍した3人の幕臣(勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟)のことを指します。

 

江戸無血開城は勝ひとりによってなされたのではなく、事前に山岡が西郷隆盛と会談し、準備を整えていたのです。

高橋は、将軍慶喜の身辺警護にあたるなど、こちらも活躍を見せました。

この作品は、彼ら三人の活躍を示し、明治維新直前の動きにスポットを当てて描かれています。

 

次の章からは、NHK大河ドラマのうち勝海舟が登場したものを2作品ご紹介します!

大河ドラマ勝海舟

1974年のNHK大河ドラマ『勝海舟』は、前述のように、子母沢寛の同名小説が原作となっています。

勝海舟の生涯が、彼のまわりの人々との交流とともに描き出されています。

 

なお、勝は当初渡哲也氏が演じていましたが、病気の関係で途中で降板し、松方弘樹氏に代わっています。

大河ドラマ龍馬伝

2010年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』においても、勝海舟は登場しました。

 

この『龍馬伝』はオリジナル作品で、三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎の視点から坂本龍馬の生涯を描く、というものです。

勝は武田鉄矢氏が演じており、強い「べらんめえ口調」が特徴的です。

 

勝は生粋の江戸っ子と言えるので、実際の話し方に近いのかもしれませんね。

まとめ

いかがでしょうか。

それではもう一度、勝海舟について振り返ってみましょう。

 

1823年に江戸で生まれた勝は、蘭学や兵学を学び、咸臨丸に乗って渡米します。

その後神戸海軍操練所の設立許可を受けたほか、私塾において教育活動を行ないました。

 

彼の最大の功績と言えるのが、鳥羽伏見の戦い後に西郷隆盛と会談し、江戸無血開城を実現したことです。

 

明治維新後も海軍卿などを務め、日本海軍の発展に寄与したほか、旧幕臣への資金援助も行ないました。

 

坂本龍馬は勝の弟子であり、松平春嶽の紹介状を受けて龍馬が勝のもとを訪れたことに始まったようです。

 

勝の残した名言としては、「事を成し遂げる者は、愚直でなければならぬ。才走ってはうまくいかない。」などがありましたね。

 

また、勝に関するエピソードとしては、子どものころに犬に襲撃されて重症を負ったこと、正妻のほかに5人の妾がいたこと、父の小吉が喧嘩に強い豪快な人物であったことなどが挙げられます。

 

勝の子どものうち、正妻との間に生まれた男子は若くして亡くなってしまいましたが、他の系譜で勝の血統は受け継がれていき、勝の玄孫にあたる高山みな子氏は現在フリーライターとして活躍しています。

 

勝海舟の墓や記念館は東京都大田区に、勝海舟邸跡は東京都港区にそれぞれあります。

 

また、勝について知ることのできる作品としては、書籍では『勝海舟』や『幕末三舟伝』が、NHK大河ドラマとしては『勝海舟』や『龍馬伝』がありましたね。

勝を取り上げた作品はこのほかにもいろいろあるので、ぜひ探してみてください!

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